ひとりごと
というか私が他人に対してデフォルトで「嫌われてる」⇒(優れていないから、至らないから、考えが足りないから、間違っているから)「否定されてる」「排除されてる」と仮定する癖があるのかもしれない!?基本的に自分に対する感情をマイナススタートで想定しているってことなのでは……!?

小声

2024年3月24日
3月22日
記憶が消えてる。あ、午前中のうちに家事と世話にくわえて買い物も済ませた。
危うく昼を抜きそうになったが、友人と少し通話を繋いで頑張ってパスタを腹に入れた覚えがある。
夜ご飯は厚い豚肉。
子、2歩ほど歩けている気がする。

3月23日
一日雨。JJ白田ルートをクリアした。
通話を繋ぎながらカレーを作った。野菜切るの、だいぶ慣れたな~と思う。
子の手が事故って顔にぶつかったりして「痛!」と声を上げると子が心なしかしょげた顔をするようになった。事故だからあまり気にしないでほしいし、どっちかというとゴミ箱に触らないことを覚えてほしい。

3月24日
夫がくたびれているので、休日ながら朝から家事と子の世話をコンスタントに頑張った。
JJ睦実ルートを進めている。JJ音ゲーやってるときに限って子がくっついてきて少し困る。

ひとりごと
下手である、無知であるという事実もまた、競争の場以外では、排除していい理由にはならない。

小声

ひとりごと
行動として否定されたり排除されたりしていないとき、否定と排除を勝手に読み取らない(仮定しない)、ある種の鈍感さ、強さと健やかさを要するのかもしれない。
そして健やかな人って否定と排除を基本的に想定していないのかもしれない!私は幼少時から排除を含んだ「嫌い」を言われることが多かったので、他人に否定と排除を想定してしまう癖がついてるのかもしれない。

小声

ひとりごと
承認がもらえなくて否定されたような気持ちになるのは、心地がさみしいときなのかもしれない。

小声

ひとりごと
「嫌い」という感情と、否定をする・排除をするという行動は、行動の動機になりやすいから混同されがちだが、別である。嫌悪は必ずしも否定と排除を伴わない。させてはならないとも言える。
「好き」が排除を伴うときもたぶんある。正しい人を好きじゃないお前はおかしい、というときとか。
それはそれとして、「嫌い」に否定と排除を想起する人が多いのは事実である。何故なら「嫌い」という言葉を、否定と排除を付随させて使う人が多いからだ。
故に、「嫌い」を表明する際、排除を意図しない場合は、恐らく言葉を尽くす必要がある。

小声

ひとりごと
他者から承認をもらえれば、「正しい」気がする。自分の考えを「肯定」されたような気がする。自分と違う考えを見ると自分の考えを「否定」されたような心地になり拒否反応を催す。私とは違うのだ、で、おしまいにすればいいはずなのに。
自分の過ちや不正解を知らされると欠けたような気持ちになる。過ちとは一体何なのだろう。それは果たして私を削ぐものなのか?
自分が思ったことを言うのは、果たして他者に肯定されたいためなのか?自分の正しさを他人に依拠するためなのか?
私は誰かに肯定されたくてネットを見ているのだろうか。
(それはそれとして、やはり私の外にあるべき公共の倫理はあるとも思う)

小声

ひとりごと
月影の鎖は他に見たことないコンテンツだからすっごく好きなんだと思う。では、「既知」であるコンテンツに触れたとき、何を以て楽しめるかと考えると、自分の中の嗜好にハマるかどうかかな、と思う。
という仮定のもと水戸黄門の“お約束”を思う。分かりやすい勧善懲悪が、かつては好きだったということだろうか。そして番組がなくなったのは、価値観の多様化についていけなかった、ということなのだろうか?

私は何故ジャックジャンヌをやってるんだろう?

小声