彼岸に背く(理めぐ) #月影の鎖 夏がまさに過ぎようとしている。晩夏の涼風が渡り始める、その短いあいだ、小さな田の畦を飾る花がある。彼岸花。 彼岸花の咲き誇る細い畦のそばに、彼女は佇んでいた。声をかけようとしたけれど、理也は咄嗟にそれを呑み込んだ。 その人の横顔が、じっと彼岸花を見つめている。 夏の盛りを思えば空の色はやや薄らいでいる。秋めいた青空を背に、彼岸花はいっそうその赤を際立たせていた。 艶やかな花であるのに、咲く時季のせいか、或いは血を思わせるような色がいけないのか―― 彼岸花という花は、ひとびとにどことなく死を想起させる。(……冬浦さん、) 先刻呼べなかった名前を胸の裡で反芻する。 冬浦めぐみは、他の人間より少しだけ死がみぢかだと、理也は感じている。それが幼い頃に両親に失ったことに所以するのか、はっきりとは分からないけれど。 それは自分と想いを通わせてもなお未だ変化のない部分だ、とーー、理也は薄く眉をしかめる。 めぐみの薄い唇が、何かをささやくように動く。その唇は、恰も花の色をうつす鏡であるかのように紅く、理也の神経をぞくりとふるわせた。咲きほこる彼岸花に微笑む少女の“画”を前に、理也は何となく青ざめるような心地になる。焦燥感に背を押され、止めていた足を一歩前へと踏み出した。 白い指が彼岸花へと伸びる。じかに花へと届く前に、理也は強引にその手を取った。「えっ」 急に手を掴まれて驚いたのであろう、めぐみが瞠目して理也へと振り向いた。「さ、理也さん……!?」「……すみません、急に」「あ、いえ……それは、構いませんが……」 相手が理也で安心したのか、めぐみはほっと息を吐くも、繋がれたままの手をにわかに意識したらしい。頬をうっすら染めながら、おそるおそる理也を窺い見る。 空いたもう片方の手で、めぐみは思わず口許を隠す。(今日は、理也さんがお店に寄ると聞いていたから、) ーー 紅を引いた。気づかれただろうかと、何となく気まずくなって、めぐみは理也から目を逸らした。 めぐみの眼差しが再び彼岸花のほうへ投げ出されたのを見とがめる。理也は掴んでいた手を放すと、間をあけず理也はめぐみの細面に手を添える。輪郭をやわらかく掴むようにして、おのれのほうへと向けさせた。そのまま、ぐいと身ごと引き寄せる。「さ、理也さー」 目近くも明らかなめぐみの困惑には知らぬふりをして、理也は目を伏せる。想い人の唇の温度を舌で軽く味わい、そっと身を離す。「……」 郊外とはいえ、屋外である。いつになく積極的な理也にめぐみは心底驚いて、声を詰まらせている。その沈黙をよそに、理也は澄ました顔で自らの唇を親指で拭う。そうして笑みをこぼした。「口紅、付けてたんですね」「……変、でしょうか?」「いいえ。よく、お似合いですよ」 少し怖いくらい―― とは言わなかった。花に似た色の口紅は、確かに、その顔をいっそう美しく引き立てていた。目の端で、彼岸花独特の細い花弁が風に揺れるのを見る。理也に脳裏に明滅する不穏な想像を振り切るように、めぐみの両手をすくい上げ、囁いた。「山の方は、もう萩が咲いてる頃かもしれません。―― このまま、店に行こうかと思ってたんですが。少し歩きますけど、一緒に、見に行きませんか」 湖面のような瞳に、望月理也という一人の男が映っている。その事実に安堵しつつ、理也は答えを待つ。あまり間を置くことはなく、めぐみははにかんで頷いた。 少女の、ほのかに染まった頬を見て、むらさきの小花の色を思い出す。畦に咲き揃う彼岸花の群れに背を向けると、理也はめぐみの手を引き、歩き出した。 2023.11.23(Thu) 00:07 二次 文章
桔梗のおとない(理めぐ) #月影の鎖「理也さん、」 呼びかけと共に控えめに外套の裾を引っ張られ、思わず目を瞬いた。 めぐみと並んで歩いていたつもりが、いつのまにか一歩前を歩いていたらしかった。「すみません、少し早かったですか」「いえ、違うんです。あの……」 よくよく見ると、少しだけ肩で息をしている。めぐみが少し後ろを振り向き、空いたほうの手で指差した。民家の庭先に、紫の花が咲いている。「ああ。桔梗、ですね」 すらりと伸びた茎が初夏の風を受け、涼しげに花が揺れる。星のように開いた花が一つ、その他はまだ蕾ばかりだった。おもむろにめぐみの指が伸びて、紙風船のように膨らんだ蕾をつつく。「こないだ紫陽花が色付いたばかりですのに、もう桔梗の時季なんですね」 桔梗は、理也としても思い入れのある花である。「毎年、桔梗を見かけると理也さんを思い出していました」 言いながら、花あさぎの瞳が微笑んだ。理也がいつも羽織っている外套は、桔梗の刺繍が施されている。想いを寄せている女に、思われて悦ばない男はそういない。理也も例に洩れず少しくすぐったくなって、帽子のつばを掻いた。「……いつもは、思い出してくれなかったんですか?」 一拍。きょとんとして、めぐみが目を瞬かせる。理也の言をようやく呑み込めたのか、たちまちその柳眉をハの字に下げた。薄い唇を微かに震えるのを、白い指で隠すしぐさがいじらしかった。「理也さんの、いじわる」 ほんのり染まった頬が愛らしいと思った。夏はまだ遠き淡青の空に風が薫る。すみれ色の長い髪がさらさらと揺れる。その可憐な想い人のありようが―― さながら桔梗のようだと、理也は思った。 2023.11.23(Thu) 00:06 二次 文章