魔境の女(理めぐ) #月影の鎖 望月理也の妻、めぐみは美しい。残月島に流れる時間は、只でさえゆるやかに感じられるのに、彼女に於いては、まるで時間の概念が存在しないようだった。率直に美しいとみていたが、同時に恐ろしくもあった。 めぐみはよく気が利くし、周囲を思い遣るその心に、嘘はないようだった。彼女の手から作られる料理は、派手さは無くとも、細部にまで美意識が感じられて、言うまでもなく美味かった。そもそも、望月の友人であるその男は、彼と彼女の関係を快く思っていないわけではない。むしろその逆だ。 ―― めぐみはふしぎなほど老いなかった。殊の外、望月理也という男の前では。 白くすべらかな頬をほのかに染め。細い指で彼に尽くし。唇に淡紅を差すことを怠らなかった。恋の初々しさと艶やかさが、いつになっても欠けなかった。望月を見つめるまなざしは、永遠の恋を謳っていた。 彼女には二人の息子がいたが、育児を疎かにしたわけではない。望月へとそそぐそれとは対照的に、ある程度老成した、温和なまなざしで彼女は彼らを見守っていた。息子たちが青年と呼べる年を数えても変わらない。めぐみの面影にはあまり変化がなかった。 隣で安らかに寝息を立てる妻の、目頭に入った小皺を指でなぞる。妻の若い面影を記憶から引き出し、今まで共にしてきた年月を思う。望月の妻、めぐみは美しい。―― しかし。少なからず老いた妻とくらべて、老いの訪れない彼女を、あるいは彼女を家内にもつ望月が羨ましいというと、そうでもない。男は独白する。 脳裏によぎる、春宵の光景。闇夜に白く浮かび上がる夜桜の下、まだ寒さの残る夜風にあやめ色の長い髪をなびかせ、ランプを片手に夫の帰りを待つ女。その眼は凪いだ湖面の如く冴え冴えと、見ようによっては冷たく、薄く憂いを帯びて伏せ目がちだった。夜陰によく馴染む昏ささえ覗かせていた。しかし良人の影を捉えた一瞬、めぐみはこの世に棚引くあらゆる時間から切り離されたように思えた。陶器の如き雪肌が瑞々しく紅潮する。おのれの姿を見るや否や潤んで蕩けた瞳に、望月は照れくさそうに頭をかきつつも、嬉しげに頬を緩ませ、駆け寄っていく。おとこはおんなに誘われ、桜の樹の下へ。―― 振り向きざまに一礼して遠ざかっていく二人の行く先が、果たして自分の世界と同じもの、地続きのものであるのか。望月理也の友人である男には、何故だか疑わしく思えた。 めぐみは気の利く娘で、周囲を思い遣る心は本物だ。心の籠もった料理の一つ一つは、言うまでもなく美味である。彼女の手で育てられた二人の息子は、若かりし頃の望月理也を思わせる、誠実で気立てもよい好青年だった。その全てが確かな事実である―― それでも。 ……望月、その女のそばは果たして仙境か。 彼には、冬浦めぐみを魔境の者とみる直感を捨てきれなかった。 2023.11.23(Thu) 00:00 二次 文章
望月理也の妻、めぐみは美しい。残月島に流れる時間は、只でさえゆるやかに感じられるのに、彼女に於いては、まるで時間の概念が存在しないようだった。率直に美しいとみていたが、同時に恐ろしくもあった。
めぐみはよく気が利くし、周囲を思い遣るその心に、嘘はないようだった。彼女の手から作られる料理は、派手さは無くとも、細部にまで美意識が感じられて、言うまでもなく美味かった。そもそも、望月の友人であるその男は、彼と彼女の関係を快く思っていないわけではない。むしろその逆だ。
―― めぐみはふしぎなほど老いなかった。殊の外、望月理也という男の前では。
白くすべらかな頬をほのかに染め。細い指で彼に尽くし。唇に淡紅を差すことを怠らなかった。恋の初々しさと艶やかさが、いつになっても欠けなかった。望月を見つめるまなざしは、永遠の恋を謳っていた。
彼女には二人の息子がいたが、育児を疎かにしたわけではない。望月へとそそぐそれとは対照的に、ある程度老成した、温和なまなざしで彼女は彼らを見守っていた。息子たちが青年と呼べる年を数えても変わらない。めぐみの面影にはあまり変化がなかった。
隣で安らかに寝息を立てる妻の、目頭に入った小皺を指でなぞる。妻の若い面影を記憶から引き出し、今まで共にしてきた年月を思う。望月の妻、めぐみは美しい。―― しかし。少なからず老いた妻とくらべて、老いの訪れない彼女を、あるいは彼女を家内にもつ望月が羨ましいというと、そうでもない。男は独白する。
脳裏によぎる、春宵の光景。闇夜に白く浮かび上がる夜桜の下、まだ寒さの残る夜風にあやめ色の長い髪をなびかせ、ランプを片手に夫の帰りを待つ女。その眼は凪いだ湖面の如く冴え冴えと、見ようによっては冷たく、薄く憂いを帯びて伏せ目がちだった。夜陰によく馴染む昏ささえ覗かせていた。しかし良人の影を捉えた一瞬、めぐみはこの世に棚引くあらゆる時間から切り離されたように思えた。陶器の如き雪肌が瑞々しく紅潮する。おのれの姿を見るや否や潤んで蕩けた瞳に、望月は照れくさそうに頭をかきつつも、嬉しげに頬を緩ませ、駆け寄っていく。おとこはおんなに誘われ、桜の樹の下へ。―― 振り向きざまに一礼して遠ざかっていく二人の行く先が、果たして自分の世界と同じもの、地続きのものであるのか。望月理也の友人である男には、何故だか疑わしく思えた。
めぐみは気の利く娘で、周囲を思い遣る心は本物だ。心の籠もった料理の一つ一つは、言うまでもなく美味である。彼女の手で育てられた二人の息子は、若かりし頃の望月理也を思わせる、誠実で気立てもよい好青年だった。その全てが確かな事実である―― それでも。
……望月、その女のそばは果たして仙境か。
彼には、冬浦めぐみを魔境の者とみる直感を捨てきれなかった。