2023年11月の投稿[8件]
2023年11月23日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
桔梗のおとない(理めぐ)
#月影の鎖
「理也さん、」
呼びかけと共に控えめに外套の裾を引っ張られ、思わず目を瞬いた。
めぐみと並んで歩いていたつもりが、いつのまにか一歩前を歩いていたらしかった。
「すみません、少し早かったですか」
「いえ、違うんです。あの……」
よくよく見ると、少しだけ肩で息をしている。めぐみが少し後ろを振り向き、空いたほうの手で指差した。民家の庭先に、紫の花が咲いている。
「ああ。桔梗、ですね」
すらりと伸びた茎が初夏の風を受け、涼しげに花が揺れる。星のように開いた花が一つ、その他はまだ蕾ばかりだった。おもむろにめぐみの指が伸びて、紙風船のように膨らんだ蕾をつつく。
「こないだ紫陽花が色付いたばかりですのに、もう桔梗の時季なんですね」
桔梗は、理也としても思い入れのある花である。
「毎年、桔梗を見かけると理也さんを思い出していました」
言いながら、花あさぎの瞳が微笑んだ。理也がいつも羽織っている外套は、桔梗の刺繍が施されている。想いを寄せている女に、思われて悦ばない男はそういない。理也も例に洩れず少しくすぐったくなって、帽子のつばを掻いた。
「……いつもは、思い出してくれなかったんですか?」
一拍。きょとんとして、めぐみが目を瞬かせる。理也の言をようやく呑み込めたのか、たちまちその柳眉をハの字に下げた。薄い唇を微かに震えるのを、白い指で隠すしぐさがいじらしかった。
「理也さんの、いじわる」
ほんのり染まった頬が愛らしいと思った。夏はまだ遠き淡青の空に風が薫る。すみれ色の長い髪がさらさらと揺れる。その可憐な想い人のありようが―― さながら桔梗のようだと、理也は思った。
「理也さん、」
呼びかけと共に控えめに外套の裾を引っ張られ、思わず目を瞬いた。
めぐみと並んで歩いていたつもりが、いつのまにか一歩前を歩いていたらしかった。
「すみません、少し早かったですか」
「いえ、違うんです。あの……」
よくよく見ると、少しだけ肩で息をしている。めぐみが少し後ろを振り向き、空いたほうの手で指差した。民家の庭先に、紫の花が咲いている。
「ああ。桔梗、ですね」
すらりと伸びた茎が初夏の風を受け、涼しげに花が揺れる。星のように開いた花が一つ、その他はまだ蕾ばかりだった。おもむろにめぐみの指が伸びて、紙風船のように膨らんだ蕾をつつく。
「こないだ紫陽花が色付いたばかりですのに、もう桔梗の時季なんですね」
桔梗は、理也としても思い入れのある花である。
「毎年、桔梗を見かけると理也さんを思い出していました」
言いながら、花あさぎの瞳が微笑んだ。理也がいつも羽織っている外套は、桔梗の刺繍が施されている。想いを寄せている女に、思われて悦ばない男はそういない。理也も例に洩れず少しくすぐったくなって、帽子のつばを掻いた。
「……いつもは、思い出してくれなかったんですか?」
一拍。きょとんとして、めぐみが目を瞬かせる。理也の言をようやく呑み込めたのか、たちまちその柳眉をハの字に下げた。薄い唇を微かに震えるのを、白い指で隠すしぐさがいじらしかった。
「理也さんの、いじわる」
ほんのり染まった頬が愛らしいと思った。夏はまだ遠き淡青の空に風が薫る。すみれ色の長い髪がさらさらと揺れる。その可憐な想い人のありようが―― さながら桔梗のようだと、理也は思った。
驟雨情(理めぐ)
#月影の鎖
雨が降りだしたと思ったら、瞬く間にざあざあ降りとなった。視界が覚束ない中、傘を片手に歩き回り、理也はやっとの思い彼女の影を見つけ出した。
「めぐみさん」と呼び掛けようとしたところで、思わずぐっと声を堪えた。――驟雨に遭ったとは思えないほど、めぐみはとても楽しげだった。まるで歌うように、彼女はその身を雨にさらしていた。
しとどに雨雫を滴らせ、蒼白い頬に貼り付いた長い髪。すみれ色がいっそう濃く、紫陽花を思わせるほど鮮やかに見えた。薄桃の羽織も、紅い花咲く衣帯も濡れそぼち、その役割を失っていた。
めぐみの瞳がちらと動き、理也のすがたを捉えたようだった。理也は呆気に取られ立ち尽くしていたが、はっと気を取り直す。さすがに、冷えて風邪でも引かれては心配で身が持たない。理也はめぐみの名を呼んだ。
「めぐみさん」
「理也さん」
「傘、持って行かなかったんですか」
「ええ、忘れてしまいました」
その唇がうすく微笑む。果たして、本当に忘れたのか? もはや信じがたいけれど、今はどうでもいい。理也は本土から持ち帰った蝙蝠傘に彼女を引き入れようと手を差し伸ばした。
そのとき。すみれの髪と同じ色をした美しい睫毛が目に入った。雨粒が、睫に触れて滴り落ちる。その向こうに碧い湖を思わせる瞳が覗く。ぽたり。止めどなく肌を伝っていく雫が、睫を微かに震わせては、あたかもめぐみの泪のように零れ落ちて、雨に紛れて消える。時としてたった一瞬の光景が、理也の瞳にはひどくゆっくりと映り、流れていった。ごくりと喉が鳴る。胸の奥に熱が蟠る。堪えられない。どうしてだろう――、煽情的だと思った。
込み上げる熱情に突き動かされるまま、理也は女の細い手首をとると、傘に引き入れるなり口付けた。さすがに驚いたのか、めぐみの碧いまなこが見開かれる。
雨に濡れた唇は冷たかったけれど、ほのかな温みが残っていた。微かではあれど、その温みが妙になまめかしく感じられーー理也は手首を掴む力を籠める。うっすらとした喜悦を覚えながら、色の薄い唇を舌と舐めて離す。
「さ、とや、さん……」
「……いけませんね。すっかり冷え切っているじゃないですか」
雨で色を失くしたはずの頬に、ほんのりと紅が差した。それを見止めた理也は少しだけ満足して、微笑んだ。雨足はいよいよ強くなる。空いた左手でめぐみを抱き寄せる。ひごろ抱き締めると感ぜられる、着物の厚みはまるで無い。
「急ぎましょう、ね、うちへ」
そう耳元で囁くとめぐみがふるりと身動いだ。めぐみの手が理也の頬を撫ぜる。濡れて冷たいはずの手に熱を覚えた。湖水藍の瞳の奥に情欲のいろがにじむのを見つけて、理也はふたたび想い女に口づけた。
雨が降りだしたと思ったら、瞬く間にざあざあ降りとなった。視界が覚束ない中、傘を片手に歩き回り、理也はやっとの思い彼女の影を見つけ出した。
「めぐみさん」と呼び掛けようとしたところで、思わずぐっと声を堪えた。――驟雨に遭ったとは思えないほど、めぐみはとても楽しげだった。まるで歌うように、彼女はその身を雨にさらしていた。
しとどに雨雫を滴らせ、蒼白い頬に貼り付いた長い髪。すみれ色がいっそう濃く、紫陽花を思わせるほど鮮やかに見えた。薄桃の羽織も、紅い花咲く衣帯も濡れそぼち、その役割を失っていた。
めぐみの瞳がちらと動き、理也のすがたを捉えたようだった。理也は呆気に取られ立ち尽くしていたが、はっと気を取り直す。さすがに、冷えて風邪でも引かれては心配で身が持たない。理也はめぐみの名を呼んだ。
「めぐみさん」
「理也さん」
「傘、持って行かなかったんですか」
「ええ、忘れてしまいました」
その唇がうすく微笑む。果たして、本当に忘れたのか? もはや信じがたいけれど、今はどうでもいい。理也は本土から持ち帰った蝙蝠傘に彼女を引き入れようと手を差し伸ばした。
そのとき。すみれの髪と同じ色をした美しい睫毛が目に入った。雨粒が、睫に触れて滴り落ちる。その向こうに碧い湖を思わせる瞳が覗く。ぽたり。止めどなく肌を伝っていく雫が、睫を微かに震わせては、あたかもめぐみの泪のように零れ落ちて、雨に紛れて消える。時としてたった一瞬の光景が、理也の瞳にはひどくゆっくりと映り、流れていった。ごくりと喉が鳴る。胸の奥に熱が蟠る。堪えられない。どうしてだろう――、煽情的だと思った。
込み上げる熱情に突き動かされるまま、理也は女の細い手首をとると、傘に引き入れるなり口付けた。さすがに驚いたのか、めぐみの碧いまなこが見開かれる。
雨に濡れた唇は冷たかったけれど、ほのかな温みが残っていた。微かではあれど、その温みが妙になまめかしく感じられーー理也は手首を掴む力を籠める。うっすらとした喜悦を覚えながら、色の薄い唇を舌と舐めて離す。
「さ、とや、さん……」
「……いけませんね。すっかり冷え切っているじゃないですか」
雨で色を失くしたはずの頬に、ほんのりと紅が差した。それを見止めた理也は少しだけ満足して、微笑んだ。雨足はいよいよ強くなる。空いた左手でめぐみを抱き寄せる。ひごろ抱き締めると感ぜられる、着物の厚みはまるで無い。
「急ぎましょう、ね、うちへ」
そう耳元で囁くとめぐみがふるりと身動いだ。めぐみの手が理也の頬を撫ぜる。濡れて冷たいはずの手に熱を覚えた。湖水藍の瞳の奥に情欲のいろがにじむのを見つけて、理也はふたたび想い女に口づけた。
醜女(樹めぐ)
#月影の鎖
「冬浦さんほど良い女、そうはいない」
それは単なるうわさ話だ。俺がいないところでの。冬浦めぐみと共に本土に戻ってきて、それなりの時が経った。彼女の賄いの仕事もずいぶん社に馴染み、もはや名物といっても過言ではない。彼女の手料理を楽しみに仕事に勤しむ男たちも少なくないと聞く。これも単なるうわさ話だ。
(あれが、良い女に見えるのか)
樹は胸のうちで独りごちる。脳裏で彼女のことを思い浮かべる。
気は利くし、よく働く。応対自体も、控えめながら決して無愛想ではない。
何より料理は、味にうるさい兄を唸らせるほどの逸品。その手練に込められた心に、裏表なきことも、樹は知っている。
スミレの色をした長い髪、湖面のような瞳。世間一般的に、「美しい」と評しうる程度には整っている。着物に隠された胸元も、人並みより豊かなことも知っている。
(そう、見目は良いほうがいい)
外見は美しいことに越したことはないはずだ。―― だのに。
(本当に莫迦げている)
その罵詈は誰に向けたものであろう。恋人が聞き耳を立てていることも知らず、下世話に興じる男たちにに向けたものか。―― おのれに向けたものであるか。
かの島の一夜。月の光差す縁側。重ねられた手。
―― 冬浦めぐみがいかに醜女であろうとも、あれはあの夜、俺のそばにいたのだろう。
ひとが聞けば、容姿を問わぬ愛だ、純愛だのと高踏ぶるかもしれないが、如何せんそう甘やかな類のものではない。
(我ながら、この情念《おもい》は狂っている)
藤堂樹には確信があった。
貌がいびつに歪んでいようと、髪が白茶けていようと、瘦せ衰えた老婆であろうとも。この身に抱えた虚ろを無様なほどに暴くのは、間違いなく、冬浦めぐみ一人であっただろう―― と。
樹は薄い唇に引き攣らせ、自嘲する。
心臓のあたりを手で触れれば、衣服の裡に忍ばせた小瓶の硬い感触がした。空には、あの日と似た月が白く浮かんでいる。
「冬浦さんほど良い女、そうはいない」
それは単なるうわさ話だ。俺がいないところでの。冬浦めぐみと共に本土に戻ってきて、それなりの時が経った。彼女の賄いの仕事もずいぶん社に馴染み、もはや名物といっても過言ではない。彼女の手料理を楽しみに仕事に勤しむ男たちも少なくないと聞く。これも単なるうわさ話だ。
(あれが、良い女に見えるのか)
樹は胸のうちで独りごちる。脳裏で彼女のことを思い浮かべる。
気は利くし、よく働く。応対自体も、控えめながら決して無愛想ではない。
何より料理は、味にうるさい兄を唸らせるほどの逸品。その手練に込められた心に、裏表なきことも、樹は知っている。
スミレの色をした長い髪、湖面のような瞳。世間一般的に、「美しい」と評しうる程度には整っている。着物に隠された胸元も、人並みより豊かなことも知っている。
(そう、見目は良いほうがいい)
外見は美しいことに越したことはないはずだ。―― だのに。
(本当に莫迦げている)
その罵詈は誰に向けたものであろう。恋人が聞き耳を立てていることも知らず、下世話に興じる男たちにに向けたものか。―― おのれに向けたものであるか。
かの島の一夜。月の光差す縁側。重ねられた手。
―― 冬浦めぐみがいかに醜女であろうとも、あれはあの夜、俺のそばにいたのだろう。
ひとが聞けば、容姿を問わぬ愛だ、純愛だのと高踏ぶるかもしれないが、如何せんそう甘やかな類のものではない。
(我ながら、この情念《おもい》は狂っている)
藤堂樹には確信があった。
貌がいびつに歪んでいようと、髪が白茶けていようと、瘦せ衰えた老婆であろうとも。この身に抱えた虚ろを無様なほどに暴くのは、間違いなく、冬浦めぐみ一人であっただろう―― と。
樹は薄い唇に引き攣らせ、自嘲する。
心臓のあたりを手で触れれば、衣服の裡に忍ばせた小瓶の硬い感触がした。空には、あの日と似た月が白く浮かんでいる。
彩づく帰路(樹めぐ)
#月影の鎖
買い物帰りの道すがら、ふと空を見上げると灰色の雲が立ち込めていた。行きは淡い晴れ空だったのに。傘は持ってきていない。めぐみは心なしか足早に歩を進める。
「あれは、紫陽花……?」
瑞々しい緑の葉から零れ落ちそうな花の房。家々の庭先で、紫陽花が色付き始めている。紫、青、とき色、白。そも、島では見ない紫陽花だった。それを紫陽花だと教えてくれたのは、ほかならぬ樹だった。外国で品種改良された紫陽花が、日本に輸入され、本土では広がり始めているらしい。
梅雨の時期は何かと思い通りに行かないことが多いけれど、西洋紫陽花の彩りは、めぐみの心をほんの少し軽くした。ひし形の花びらに触れた指先に、一粒の雨がはねた。
(あ、降ってきちゃった……)
紫陽花に気取られているうちに、曇り空はいよいよ濃くなり、ぽつぽつと雫を降らし始めた。どこからか湿った匂いが押し寄せてくる。めぐみは風呂敷を抱え直すと、気持ち急いで家路に向き直る。
その先に現れた人影に、めぐみは目を瞬かせた。見慣れた真っ黒な立ち姿。蝙蝠傘を広げているだけに、余計に黒が濃く思えて、紫陽花の彩りを楽しんだ目には少し浮き立って見えた。
「樹さん」
思わず声を上げる。樹がめぐみのすがたを見とめ、呆れがちに目を細めたのが遠目にでも分かった。足許が汚れぬよう気を付けながら駆け寄っためぐみに、聞えよがしに樹が溜息をつく。
「……アンタね、今日は降るって今朝言ったでしょう」
「そういえば、そうでした」
「余計な手を煩わせないでくださいよ」
「ごめんなさい、樹さん。今日は少し慌ただしくて……」
「何ボサッとしてるんですか。行きますよ。俺も忙しいんです」
彼のつっけんどんな物言いにも慣れた。どんなに冷たく突き放しても、めぐみが傘を持って行っていないことに気付いて、迎えに来てくれたらしい彼の優しさに微笑む。
「あの、西洋紫陽花」
「うん?」
「色とりどりで、綺麗ですね」
「……もう夏か」
「え?」
「梅雨が終わったら、夏だろ」
「……はあ」
「アンタがあの島を出て、もう二年にもなるのか」
その声色に、らしくない感慨のようなものが滲んているように思われて、めぐみは少し驚いて樹を見上げる。夜闇を溶かしたような瞳と目が合い、重ねて驚く。
「何です」
「いいえ、えっと、傘、とか……」
「手荷物になるから、持ってきてない。―― ほら、早く」
目を瞬かせるめぐみに、バツの悪そうに眉間に皺を寄せて。
「入れって言ってんですよ。言わなくても分かりなさい」
ときどき理不尽な彼の物言いも、二年前と比べるとずいぶん和らいだものだと改めて感じ入る。返事代わりに、めぐみは口元だけで微笑んで見せると、樹との距離をつめた。
蝙蝠傘の下に入る。みどりの黒髪からうっすら覗く、耳たぶがほんのりと赤い。樹は色が白いから、その心の裡が肌の色の変化で知れるのだった。まるで紫陽花のようだと、めぐみは思う。
―― ぱた、ぱたと、傘の布が雨粒をはじく音に耳を傾けながら、めぐみは樹とふたり辿る家路の美しさを想った。
買い物帰りの道すがら、ふと空を見上げると灰色の雲が立ち込めていた。行きは淡い晴れ空だったのに。傘は持ってきていない。めぐみは心なしか足早に歩を進める。
「あれは、紫陽花……?」
瑞々しい緑の葉から零れ落ちそうな花の房。家々の庭先で、紫陽花が色付き始めている。紫、青、とき色、白。そも、島では見ない紫陽花だった。それを紫陽花だと教えてくれたのは、ほかならぬ樹だった。外国で品種改良された紫陽花が、日本に輸入され、本土では広がり始めているらしい。
梅雨の時期は何かと思い通りに行かないことが多いけれど、西洋紫陽花の彩りは、めぐみの心をほんの少し軽くした。ひし形の花びらに触れた指先に、一粒の雨がはねた。
(あ、降ってきちゃった……)
紫陽花に気取られているうちに、曇り空はいよいよ濃くなり、ぽつぽつと雫を降らし始めた。どこからか湿った匂いが押し寄せてくる。めぐみは風呂敷を抱え直すと、気持ち急いで家路に向き直る。
その先に現れた人影に、めぐみは目を瞬かせた。見慣れた真っ黒な立ち姿。蝙蝠傘を広げているだけに、余計に黒が濃く思えて、紫陽花の彩りを楽しんだ目には少し浮き立って見えた。
「樹さん」
思わず声を上げる。樹がめぐみのすがたを見とめ、呆れがちに目を細めたのが遠目にでも分かった。足許が汚れぬよう気を付けながら駆け寄っためぐみに、聞えよがしに樹が溜息をつく。
「……アンタね、今日は降るって今朝言ったでしょう」
「そういえば、そうでした」
「余計な手を煩わせないでくださいよ」
「ごめんなさい、樹さん。今日は少し慌ただしくて……」
「何ボサッとしてるんですか。行きますよ。俺も忙しいんです」
彼のつっけんどんな物言いにも慣れた。どんなに冷たく突き放しても、めぐみが傘を持って行っていないことに気付いて、迎えに来てくれたらしい彼の優しさに微笑む。
「あの、西洋紫陽花」
「うん?」
「色とりどりで、綺麗ですね」
「……もう夏か」
「え?」
「梅雨が終わったら、夏だろ」
「……はあ」
「アンタがあの島を出て、もう二年にもなるのか」
その声色に、らしくない感慨のようなものが滲んているように思われて、めぐみは少し驚いて樹を見上げる。夜闇を溶かしたような瞳と目が合い、重ねて驚く。
「何です」
「いいえ、えっと、傘、とか……」
「手荷物になるから、持ってきてない。―― ほら、早く」
目を瞬かせるめぐみに、バツの悪そうに眉間に皺を寄せて。
「入れって言ってんですよ。言わなくても分かりなさい」
ときどき理不尽な彼の物言いも、二年前と比べるとずいぶん和らいだものだと改めて感じ入る。返事代わりに、めぐみは口元だけで微笑んで見せると、樹との距離をつめた。
蝙蝠傘の下に入る。みどりの黒髪からうっすら覗く、耳たぶがほんのりと赤い。樹は色が白いから、その心の裡が肌の色の変化で知れるのだった。まるで紫陽花のようだと、めぐみは思う。
―― ぱた、ぱたと、傘の布が雨粒をはじく音に耳を傾けながら、めぐみは樹とふたり辿る家路の美しさを想った。
夏がまさに過ぎようとしている。晩夏の涼風が渡り始める、その短いあいだ、小さな田の畦を飾る花がある。彼岸花。
彼岸花の咲き誇る細い畦のそばに、彼女は佇んでいた。声をかけようとしたけれど、理也は咄嗟にそれを呑み込んだ。
その人の横顔が、じっと彼岸花を見つめている。
夏の盛りを思えば空の色はやや薄らいでいる。秋めいた青空を背に、彼岸花はいっそうその赤を際立たせていた。
艶やかな花であるのに、咲く時季のせいか、或いは血を思わせるような色がいけないのか―― 彼岸花という花は、ひとびとにどことなく死を想起させる。
(……冬浦さん、)
先刻呼べなかった名前を胸の裡で反芻する。
冬浦めぐみは、他の人間より少しだけ死がみぢかだと、理也は感じている。それが幼い頃に両親に失ったことに所以するのか、はっきりとは分からないけれど。
それは自分と想いを通わせてもなお未だ変化のない部分だ、とーー、理也は薄く眉をしかめる。
めぐみの薄い唇が、何かをささやくように動く。その唇は、恰も花の色をうつす鏡であるかのように紅く、理也の神経をぞくりとふるわせた。咲きほこる彼岸花に微笑む少女の“画”を前に、理也は何となく青ざめるような心地になる。焦燥感に背を押され、止めていた足を一歩前へと踏み出した。
白い指が彼岸花へと伸びる。じかに花へと届く前に、理也は強引にその手を取った。
「えっ」
急に手を掴まれて驚いたのであろう、めぐみが瞠目して理也へと振り向いた。
「さ、理也さん……!?」
「……すみません、急に」
「あ、いえ……それは、構いませんが……」
相手が理也で安心したのか、めぐみはほっと息を吐くも、繋がれたままの手をにわかに意識したらしい。頬をうっすら染めながら、おそるおそる理也を窺い見る。
空いたもう片方の手で、めぐみは思わず口許を隠す。
(今日は、理也さんがお店に寄ると聞いていたから、)
ーー 紅を引いた。気づかれただろうかと、何となく気まずくなって、めぐみは理也から目を逸らした。
めぐみの眼差しが再び彼岸花のほうへ投げ出されたのを見とがめる。理也は掴んでいた手を放すと、間をあけず理也はめぐみの細面に手を添える。輪郭をやわらかく掴むようにして、おのれのほうへと向けさせた。そのまま、ぐいと身ごと引き寄せる。
「さ、理也さー」
目近くも明らかなめぐみの困惑には知らぬふりをして、理也は目を伏せる。想い人の唇の温度を舌で軽く味わい、そっと身を離す。
「……」
郊外とはいえ、屋外である。いつになく積極的な理也にめぐみは心底驚いて、声を詰まらせている。その沈黙をよそに、理也は澄ました顔で自らの唇を親指で拭う。そうして笑みをこぼした。
「口紅、付けてたんですね」
「……変、でしょうか?」
「いいえ。よく、お似合いですよ」
少し怖いくらい―― とは言わなかった。花に似た色の口紅は、確かに、その顔をいっそう美しく引き立てていた。目の端で、彼岸花独特の細い花弁が風に揺れるのを見る。理也に脳裏に明滅する不穏な想像を振り切るように、めぐみの両手をすくい上げ、囁いた。
「山の方は、もう萩が咲いてる頃かもしれません。―― このまま、店に行こうかと思ってたんですが。少し歩きますけど、一緒に、見に行きませんか」
湖面のような瞳に、望月理也という一人の男が映っている。その事実に安堵しつつ、理也は答えを待つ。あまり間を置くことはなく、めぐみははにかんで頷いた。
少女の、ほのかに染まった頬を見て、むらさきの小花の色を思い出す。畦に咲き揃う彼岸花の群れに背を向けると、理也はめぐみの手を引き、歩き出した。