2023年の投稿[26件](2ページ目)
2023年11月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
彩づく帰路(樹めぐ)
#月影の鎖
買い物帰りの道すがら、ふと空を見上げると灰色の雲が立ち込めていた。行きは淡い晴れ空だったのに。傘は持ってきていない。めぐみは心なしか足早に歩を進める。
「あれは、紫陽花……?」
瑞々しい緑の葉から零れ落ちそうな花の房。家々の庭先で、紫陽花が色付き始めている。紫、青、とき色、白。そも、島では見ない紫陽花だった。それを紫陽花だと教えてくれたのは、ほかならぬ樹だった。外国で品種改良された紫陽花が、日本に輸入され、本土では広がり始めているらしい。
梅雨の時期は何かと思い通りに行かないことが多いけれど、西洋紫陽花の彩りは、めぐみの心をほんの少し軽くした。ひし形の花びらに触れた指先に、一粒の雨がはねた。
(あ、降ってきちゃった……)
紫陽花に気取られているうちに、曇り空はいよいよ濃くなり、ぽつぽつと雫を降らし始めた。どこからか湿った匂いが押し寄せてくる。めぐみは風呂敷を抱え直すと、気持ち急いで家路に向き直る。
その先に現れた人影に、めぐみは目を瞬かせた。見慣れた真っ黒な立ち姿。蝙蝠傘を広げているだけに、余計に黒が濃く思えて、紫陽花の彩りを楽しんだ目には少し浮き立って見えた。
「樹さん」
思わず声を上げる。樹がめぐみのすがたを見とめ、呆れがちに目を細めたのが遠目にでも分かった。足許が汚れぬよう気を付けながら駆け寄っためぐみに、聞えよがしに樹が溜息をつく。
「……アンタね、今日は降るって今朝言ったでしょう」
「そういえば、そうでした」
「余計な手を煩わせないでくださいよ」
「ごめんなさい、樹さん。今日は少し慌ただしくて……」
「何ボサッとしてるんですか。行きますよ。俺も忙しいんです」
彼のつっけんどんな物言いにも慣れた。どんなに冷たく突き放しても、めぐみが傘を持って行っていないことに気付いて、迎えに来てくれたらしい彼の優しさに微笑む。
「あの、西洋紫陽花」
「うん?」
「色とりどりで、綺麗ですね」
「……もう夏か」
「え?」
「梅雨が終わったら、夏だろ」
「……はあ」
「アンタがあの島を出て、もう二年にもなるのか」
その声色に、らしくない感慨のようなものが滲んているように思われて、めぐみは少し驚いて樹を見上げる。夜闇を溶かしたような瞳と目が合い、重ねて驚く。
「何です」
「いいえ、えっと、傘、とか……」
「手荷物になるから、持ってきてない。―― ほら、早く」
目を瞬かせるめぐみに、バツの悪そうに眉間に皺を寄せて。
「入れって言ってんですよ。言わなくても分かりなさい」
ときどき理不尽な彼の物言いも、二年前と比べるとずいぶん和らいだものだと改めて感じ入る。返事代わりに、めぐみは口元だけで微笑んで見せると、樹との距離をつめた。
蝙蝠傘の下に入る。みどりの黒髪からうっすら覗く、耳たぶがほんのりと赤い。樹は色が白いから、その心の裡が肌の色の変化で知れるのだった。まるで紫陽花のようだと、めぐみは思う。
―― ぱた、ぱたと、傘の布が雨粒をはじく音に耳を傾けながら、めぐみは樹とふたり辿る家路の美しさを想った。
買い物帰りの道すがら、ふと空を見上げると灰色の雲が立ち込めていた。行きは淡い晴れ空だったのに。傘は持ってきていない。めぐみは心なしか足早に歩を進める。
「あれは、紫陽花……?」
瑞々しい緑の葉から零れ落ちそうな花の房。家々の庭先で、紫陽花が色付き始めている。紫、青、とき色、白。そも、島では見ない紫陽花だった。それを紫陽花だと教えてくれたのは、ほかならぬ樹だった。外国で品種改良された紫陽花が、日本に輸入され、本土では広がり始めているらしい。
梅雨の時期は何かと思い通りに行かないことが多いけれど、西洋紫陽花の彩りは、めぐみの心をほんの少し軽くした。ひし形の花びらに触れた指先に、一粒の雨がはねた。
(あ、降ってきちゃった……)
紫陽花に気取られているうちに、曇り空はいよいよ濃くなり、ぽつぽつと雫を降らし始めた。どこからか湿った匂いが押し寄せてくる。めぐみは風呂敷を抱え直すと、気持ち急いで家路に向き直る。
その先に現れた人影に、めぐみは目を瞬かせた。見慣れた真っ黒な立ち姿。蝙蝠傘を広げているだけに、余計に黒が濃く思えて、紫陽花の彩りを楽しんだ目には少し浮き立って見えた。
「樹さん」
思わず声を上げる。樹がめぐみのすがたを見とめ、呆れがちに目を細めたのが遠目にでも分かった。足許が汚れぬよう気を付けながら駆け寄っためぐみに、聞えよがしに樹が溜息をつく。
「……アンタね、今日は降るって今朝言ったでしょう」
「そういえば、そうでした」
「余計な手を煩わせないでくださいよ」
「ごめんなさい、樹さん。今日は少し慌ただしくて……」
「何ボサッとしてるんですか。行きますよ。俺も忙しいんです」
彼のつっけんどんな物言いにも慣れた。どんなに冷たく突き放しても、めぐみが傘を持って行っていないことに気付いて、迎えに来てくれたらしい彼の優しさに微笑む。
「あの、西洋紫陽花」
「うん?」
「色とりどりで、綺麗ですね」
「……もう夏か」
「え?」
「梅雨が終わったら、夏だろ」
「……はあ」
「アンタがあの島を出て、もう二年にもなるのか」
その声色に、らしくない感慨のようなものが滲んているように思われて、めぐみは少し驚いて樹を見上げる。夜闇を溶かしたような瞳と目が合い、重ねて驚く。
「何です」
「いいえ、えっと、傘、とか……」
「手荷物になるから、持ってきてない。―― ほら、早く」
目を瞬かせるめぐみに、バツの悪そうに眉間に皺を寄せて。
「入れって言ってんですよ。言わなくても分かりなさい」
ときどき理不尽な彼の物言いも、二年前と比べるとずいぶん和らいだものだと改めて感じ入る。返事代わりに、めぐみは口元だけで微笑んで見せると、樹との距離をつめた。
蝙蝠傘の下に入る。みどりの黒髪からうっすら覗く、耳たぶがほんのりと赤い。樹は色が白いから、その心の裡が肌の色の変化で知れるのだった。まるで紫陽花のようだと、めぐみは思う。
―― ぱた、ぱたと、傘の布が雨粒をはじく音に耳を傾けながら、めぐみは樹とふたり辿る家路の美しさを想った。
告白する薄明(理めぐ)
#月影の鎖
「……め、」
―― めぐみさん。呼びかけようとした声を思わず呑み込んだ。レモネードの冷たさばかりがのどから胸へと下っていく。
窓から差す夕暮れの陽射しが、やわらかく店内を染める。ふだんであればほっと息をつく光景に、かすかに胸の奥がざわめいた。
(どこを見ているんだろう)
ちかごろ、ふとした瞬間に目にする、彼女の瞳のゆきさきが分からない。ぼうっとして、窓の外でもない、どこかも見えない遠くを彷徨うような。そんな薄暗い色が映される一瞬がある。不意なもので、だいたい瞬きのあとには凛とした女将の顔がある。
湖面のような蒼い瞳の、ほんの僅かな変化。気付いている人間はほとんどいないだろう。神楽坂ほどであえば分からないが―― それこそ、自分ほど彼女を見ている人間が他にいなければ。彼女の恋人(あいて)である自分だけが気付いているような、ささやかな変化だ。
そもそもあれを変化というのか、理也には分からなかった。もともとあったかもしれない彼女の“癖”に気付くようになっただけで。今さら見つけた、その“癖”に今更ひとりで動揺しているだけかもしれなかった。
彼女は働きものだ。小料理屋「月の畔」を営む傍ら、合間あいまにお遣い業まで引き受けている。ゆえに、ふとした瞬間に疲れが出るとかは自然なこと、と思う。けれど、恐らくそういう類じゃない。
何故なら、それは決まって――
(俺と何か話したあと、なんだよな……)
頭を抱えるようにテーブルに突っ伏す。手紙と電話が支えだった本土留学を経て、ようやく日常的に会えるようになった。教員として目まぐるしく働く中、月の畔をおとずれる、ゆっくりとした夕暮れ時が楽しみなのに。―― 楽しい、嬉しいのは、俺だけなのだろうか?
“瞳”に気付いてからというもの、脳裏から消えない疑問が理也の中でくすぶり続けている。つきそうになった溜息を呑み込むのも、初めてではない。
「……理也さん、」
美しい呼びかけにはっとする。カウンターの向こうから、めぐみが気遣わしげにこちらを見ている。これ以上、月の畔(ここ)で考えるのは、避けるべきだ。不用意に彼女の心配を惹起しかねない、と、理也はおもむろに身を起こす。
「お疲れですか?」
「今日の子どもたち、ちょっと落ち着きなかったから……、すこし疲れたのかもしれません」
思いつきで口をついて出た言葉だったが、あながち嘘でも無かった。めぐみがカウンターを出て、理也の座る席のそばに近寄ってくる。そっと目の前に差し出されたのはみたらし団子だった。
「今日、ちょうどおやつどきに神楽坂さんがいらしたんです。理也さんも…… いかがですか?」
「……いただきます」
団子を一つ頬張ると、こっくりとした甘さが口の中に広がった。濃い甘味が脳に染み入るようだった。そもそもめぐみの眼差しの行方がこんなに引っ掛かるのも、新学期のあわただしさが過ぎた五月という季節柄が為せるものかもしれない。
みたらしの後味を口腔に感じながら、店内を見回す。入店したときには二、三あった影はない。
「変わらず、すごく美味しいです。沁みますね」
「ふふ、ありがとうございます」
理也の言葉に頬を淡く染めながら、めぐみが微笑む。彼女の手指が、その胸の前で何やらまごついている。問いかけたい気持ちを抑えて、素知らぬ顔で理也は彼女の次の行動を待つ。蒼色の目がわずかに泳ぐさまに、一瞬ぎくりとする。……が、その瞳に“例”のような翳りはなく、胸のうちで安堵の息を吐いた。
めぐみの指がそろりと頭上へと差し伸べられる。
「毎日頑張っていらっしゃるんですね」
「!」
ほそい手指が亜麻色の髪に触れる。そのまま、労わるように、めぐみは理也の頭をすっと撫でた。
「理也さんのことですから、少し無理をしていないか、心配してしまいます……」
控えめに彼女は云った。「―― いや、それを言うなら貴方もでしょう」と、理也は苦笑を禁じ得ない。髪を梳くように優しい手つきで、めぐみは理也の頭をやわらかく撫でつづける。
―― めぐみに頭を撫でられる。基本的には遠慮しいな彼女の、思わぬ行いに少し驚く。まして、まだ店を閉めてはいない。義母のみちびきに拠らぬ、“冬浦めぐみ”の心に由るものだった。照れくささに目を伏せつつ、好いた女(ひと)に撫でられる心地よさに、理也は素直に身をゆだねた。
みずから恋人に触れようとする彼女を、嬉しいとも、可愛らしいとも理也は想う。それは春先、ひっそりと路端に咲くスミレの花に、ひとり気付く歓びにも似ていた。
彼女と恋を結ぶには、その生まれから枷がやまほどあった。けれど、その枷の全てが、彼女と生きていくこれからとは、引き換えにもならぬものとして思い出された。この得がたく手放しがたい幸せを前にしては。
(そうだ、)
―― これから。
(俺は……)
―― 俺は、彼女と一緒に生きていきたい。
冬浦めぐみが頭を撫でるのは望月理也だけであってほしい。美しい声で名を呼ぶのも、また。
想いに駆られるまま、伏せた瞼を持ちあげる。仰いだ先で、蒼い瞳と視線がかち合った。
(バレないと、思ってるんですかね)
少し腹立たしくもあった。花あさぎの色をした瞳にかすめた愁いを、理也を見逃さない。
窓から広がる赤光が、いよいよ濃く壁を染め上げるころ、月の畔には冬浦めぐみと、望月理也の二人しかいなかった。
「ねえ、めぐみさん」
「はい?」
「めぐみ」
恋人になって年月を流れてもなお、彼が冬浦めぐみを“そう”呼ぶシーンは、限られている。だから、何年経っても、名を呼ばれるとどきりとしてしまう。思わず手を引っ込めようとしたが、叶わなかった。理也の手がめぐみの手首を掴んだからだ。
決して痛くはないけれど、強いて言うなれば、そこに離す意思が感じられない。
(何か、気に障っただろうか。それとも、)
頭を撫でるなんて、出過ぎた真似だっただろうか。出逢ったころ、年上とはいえ少年のふぜいがあった理也だが、このところはずいぶん精悍な顔つきになった。教職のしごとも順調で、お遣いのついでにそっと教室を覗いたことがある。壇上で教鞭をとる彼のすがたは、すっかり“大人”が板についたようで―― こんな素敵なひとが、私の―― そう思うと、めぐみの胸に言い表しがたい感情が去来した。言い表しがたい。
……そう、めぐみは、その胸の裡に、言い得ぬ思いを飼い殺している。
桔梗色の瞳が凝っとめぐみを捉えて、外れない。めぐみは少したじろいだ。掴まれた手を引っ込めようと動かしたものの、存外強い力で掴まれてびくともしない。
「あ、あの、理也さん?」
「めぐみは、俺と一緒にいられて幸せですか」
「えっ」
「俺は、貴方と一緒にいられて幸せです。仕事帰りにここに寄るのも、貴方の作った料理を食べられるのも。もちろん、こうして貴方から触れてもらえることも。その相手が俺だけであることも」
唐突にも思える理也の告白にめぐみは瞠目する。急にどうしたのだろうとめぐみが困惑する間もなく、理也は言葉を続ける。
「貴方、最近何か考えていることがあるでしょう」
問いかけにもかかわらず、いいえとは言わせぬきびしさがあった。
「俺と話したあと、ほんの一瞬、目の色が変わるんです」
「目の……」
「たぶん、俺以外は気付いていないと思います」
理也にしては傲慢な言い回しをする。
「俺は、貴方をよく見ているから、気付いてしまったんです。これは、貴方を何か疑っているとか、そういうことじゃなくて」
手首を掴んでいた手をするりとほどき、そのまま流れるようにめぐみの手を包み込む。
「……俺が、欲しがりなんですよ」
理也は、みずからの五指を、めぐみの五指に一つひとつ絡ませ、ぎゅうと握りこんだ。
みずからの思いを語る望月理也の声はあくまで優しかった。いつも通りめぐみへの気遣いを滲ませた、温かいもの。しかし理也の瞳ばかりは、めぐみの秘めた憂いを射貫く鋭利さを湛えている。
「教えてください。貴方が今、何を考えているのか。あいにく、俺は貴方をずっと離す気がないんですが……」
夕陽が落ちたのか、室内は夜のけはいが濃くなっている。薄暗くなり、視界は悪くなっているにもかかわらず、理也のまなざしばかりが克明だった。観念という言葉が、めぐみの脳裏に過る。
「……幸せ、です。幸せなんです」
それは、追い詰められたけものの断末魔のようでもあった。絞り出した自らの言葉を後追いで認識し、次いで、胸の奥に突き刺すような痛みが走ったのを、めぐみは知覚した。
「理也さんといられて、幸せなんです。とても幸せで。でも幸せに思うほど、これは遠からずいつの日か喪われるものなんだと思われて、」
桔梗色の澄んだ瞳に、みぐるしく涙を落とす女のすがたが映っている。
「喪うことを思うと、怖くて……」
―― すっと消えたくなってしまうんです。
「消えるなんて、そんなことできるはずないのに。そういう惑い(ゆめ)を見てしまうんです」
ひどい裏切りだと思った。
めぐみは唇を震わせる。これほどに誠意と愛をそそいでもらっているのに。消えたいだの、しにたいだのを考えつづける女。
涙でぼやけているから、自分の手を離さぬ男(ひと)が、どんな顔をしているのか分からないことに、安堵するような女。
右手でめぐみの手首を掴んだまま、理也が立ち上がる。もう片方の手をめぐみの目元へと差し伸べる。溢れて止まらぬ、めぐみの涙を拭い、理也は微笑んだ。
「……大丈夫です。いいんです、貴方に、俺と添い遂げる覚悟がなくても」
「理也さん、」
「貴方に覚悟があろうとも、なかろうとも」
―― 俺は貴方を離す気がないんですから。
涙を拭った手で理也はめぐみを抱き寄せた。耳元で囁かれる声が、やさしいのかつめたいのか、めぐみは分からぬまま、彼の胸に顔を埋める。その温かい感触が、自身の涙に濡れて冷たくなっていくことに罪悪感を感じながら。握られた手をようやく握り返した。
視線をうつろわせ、窓の外を見る。湖面のような蒼い瞳には、夜空にぽっかりと浮かぶ白い月のかげがあった。
「……め、」
―― めぐみさん。呼びかけようとした声を思わず呑み込んだ。レモネードの冷たさばかりがのどから胸へと下っていく。
窓から差す夕暮れの陽射しが、やわらかく店内を染める。ふだんであればほっと息をつく光景に、かすかに胸の奥がざわめいた。
(どこを見ているんだろう)
ちかごろ、ふとした瞬間に目にする、彼女の瞳のゆきさきが分からない。ぼうっとして、窓の外でもない、どこかも見えない遠くを彷徨うような。そんな薄暗い色が映される一瞬がある。不意なもので、だいたい瞬きのあとには凛とした女将の顔がある。
湖面のような蒼い瞳の、ほんの僅かな変化。気付いている人間はほとんどいないだろう。神楽坂ほどであえば分からないが―― それこそ、自分ほど彼女を見ている人間が他にいなければ。彼女の恋人(あいて)である自分だけが気付いているような、ささやかな変化だ。
そもそもあれを変化というのか、理也には分からなかった。もともとあったかもしれない彼女の“癖”に気付くようになっただけで。今さら見つけた、その“癖”に今更ひとりで動揺しているだけかもしれなかった。
彼女は働きものだ。小料理屋「月の畔」を営む傍ら、合間あいまにお遣い業まで引き受けている。ゆえに、ふとした瞬間に疲れが出るとかは自然なこと、と思う。けれど、恐らくそういう類じゃない。
何故なら、それは決まって――
(俺と何か話したあと、なんだよな……)
頭を抱えるようにテーブルに突っ伏す。手紙と電話が支えだった本土留学を経て、ようやく日常的に会えるようになった。教員として目まぐるしく働く中、月の畔をおとずれる、ゆっくりとした夕暮れ時が楽しみなのに。―― 楽しい、嬉しいのは、俺だけなのだろうか?
“瞳”に気付いてからというもの、脳裏から消えない疑問が理也の中でくすぶり続けている。つきそうになった溜息を呑み込むのも、初めてではない。
「……理也さん、」
美しい呼びかけにはっとする。カウンターの向こうから、めぐみが気遣わしげにこちらを見ている。これ以上、月の畔(ここ)で考えるのは、避けるべきだ。不用意に彼女の心配を惹起しかねない、と、理也はおもむろに身を起こす。
「お疲れですか?」
「今日の子どもたち、ちょっと落ち着きなかったから……、すこし疲れたのかもしれません」
思いつきで口をついて出た言葉だったが、あながち嘘でも無かった。めぐみがカウンターを出て、理也の座る席のそばに近寄ってくる。そっと目の前に差し出されたのはみたらし団子だった。
「今日、ちょうどおやつどきに神楽坂さんがいらしたんです。理也さんも…… いかがですか?」
「……いただきます」
団子を一つ頬張ると、こっくりとした甘さが口の中に広がった。濃い甘味が脳に染み入るようだった。そもそもめぐみの眼差しの行方がこんなに引っ掛かるのも、新学期のあわただしさが過ぎた五月という季節柄が為せるものかもしれない。
みたらしの後味を口腔に感じながら、店内を見回す。入店したときには二、三あった影はない。
「変わらず、すごく美味しいです。沁みますね」
「ふふ、ありがとうございます」
理也の言葉に頬を淡く染めながら、めぐみが微笑む。彼女の手指が、その胸の前で何やらまごついている。問いかけたい気持ちを抑えて、素知らぬ顔で理也は彼女の次の行動を待つ。蒼色の目がわずかに泳ぐさまに、一瞬ぎくりとする。……が、その瞳に“例”のような翳りはなく、胸のうちで安堵の息を吐いた。
めぐみの指がそろりと頭上へと差し伸べられる。
「毎日頑張っていらっしゃるんですね」
「!」
ほそい手指が亜麻色の髪に触れる。そのまま、労わるように、めぐみは理也の頭をすっと撫でた。
「理也さんのことですから、少し無理をしていないか、心配してしまいます……」
控えめに彼女は云った。「―― いや、それを言うなら貴方もでしょう」と、理也は苦笑を禁じ得ない。髪を梳くように優しい手つきで、めぐみは理也の頭をやわらかく撫でつづける。
―― めぐみに頭を撫でられる。基本的には遠慮しいな彼女の、思わぬ行いに少し驚く。まして、まだ店を閉めてはいない。義母のみちびきに拠らぬ、“冬浦めぐみ”の心に由るものだった。照れくささに目を伏せつつ、好いた女(ひと)に撫でられる心地よさに、理也は素直に身をゆだねた。
みずから恋人に触れようとする彼女を、嬉しいとも、可愛らしいとも理也は想う。それは春先、ひっそりと路端に咲くスミレの花に、ひとり気付く歓びにも似ていた。
彼女と恋を結ぶには、その生まれから枷がやまほどあった。けれど、その枷の全てが、彼女と生きていくこれからとは、引き換えにもならぬものとして思い出された。この得がたく手放しがたい幸せを前にしては。
(そうだ、)
―― これから。
(俺は……)
―― 俺は、彼女と一緒に生きていきたい。
冬浦めぐみが頭を撫でるのは望月理也だけであってほしい。美しい声で名を呼ぶのも、また。
想いに駆られるまま、伏せた瞼を持ちあげる。仰いだ先で、蒼い瞳と視線がかち合った。
(バレないと、思ってるんですかね)
少し腹立たしくもあった。花あさぎの色をした瞳にかすめた愁いを、理也を見逃さない。
窓から広がる赤光が、いよいよ濃く壁を染め上げるころ、月の畔には冬浦めぐみと、望月理也の二人しかいなかった。
「ねえ、めぐみさん」
「はい?」
「めぐみ」
恋人になって年月を流れてもなお、彼が冬浦めぐみを“そう”呼ぶシーンは、限られている。だから、何年経っても、名を呼ばれるとどきりとしてしまう。思わず手を引っ込めようとしたが、叶わなかった。理也の手がめぐみの手首を掴んだからだ。
決して痛くはないけれど、強いて言うなれば、そこに離す意思が感じられない。
(何か、気に障っただろうか。それとも、)
頭を撫でるなんて、出過ぎた真似だっただろうか。出逢ったころ、年上とはいえ少年のふぜいがあった理也だが、このところはずいぶん精悍な顔つきになった。教職のしごとも順調で、お遣いのついでにそっと教室を覗いたことがある。壇上で教鞭をとる彼のすがたは、すっかり“大人”が板についたようで―― こんな素敵なひとが、私の―― そう思うと、めぐみの胸に言い表しがたい感情が去来した。言い表しがたい。
……そう、めぐみは、その胸の裡に、言い得ぬ思いを飼い殺している。
桔梗色の瞳が凝っとめぐみを捉えて、外れない。めぐみは少したじろいだ。掴まれた手を引っ込めようと動かしたものの、存外強い力で掴まれてびくともしない。
「あ、あの、理也さん?」
「めぐみは、俺と一緒にいられて幸せですか」
「えっ」
「俺は、貴方と一緒にいられて幸せです。仕事帰りにここに寄るのも、貴方の作った料理を食べられるのも。もちろん、こうして貴方から触れてもらえることも。その相手が俺だけであることも」
唐突にも思える理也の告白にめぐみは瞠目する。急にどうしたのだろうとめぐみが困惑する間もなく、理也は言葉を続ける。
「貴方、最近何か考えていることがあるでしょう」
問いかけにもかかわらず、いいえとは言わせぬきびしさがあった。
「俺と話したあと、ほんの一瞬、目の色が変わるんです」
「目の……」
「たぶん、俺以外は気付いていないと思います」
理也にしては傲慢な言い回しをする。
「俺は、貴方をよく見ているから、気付いてしまったんです。これは、貴方を何か疑っているとか、そういうことじゃなくて」
手首を掴んでいた手をするりとほどき、そのまま流れるようにめぐみの手を包み込む。
「……俺が、欲しがりなんですよ」
理也は、みずからの五指を、めぐみの五指に一つひとつ絡ませ、ぎゅうと握りこんだ。
みずからの思いを語る望月理也の声はあくまで優しかった。いつも通りめぐみへの気遣いを滲ませた、温かいもの。しかし理也の瞳ばかりは、めぐみの秘めた憂いを射貫く鋭利さを湛えている。
「教えてください。貴方が今、何を考えているのか。あいにく、俺は貴方をずっと離す気がないんですが……」
夕陽が落ちたのか、室内は夜のけはいが濃くなっている。薄暗くなり、視界は悪くなっているにもかかわらず、理也のまなざしばかりが克明だった。観念という言葉が、めぐみの脳裏に過る。
「……幸せ、です。幸せなんです」
それは、追い詰められたけものの断末魔のようでもあった。絞り出した自らの言葉を後追いで認識し、次いで、胸の奥に突き刺すような痛みが走ったのを、めぐみは知覚した。
「理也さんといられて、幸せなんです。とても幸せで。でも幸せに思うほど、これは遠からずいつの日か喪われるものなんだと思われて、」
桔梗色の澄んだ瞳に、みぐるしく涙を落とす女のすがたが映っている。
「喪うことを思うと、怖くて……」
―― すっと消えたくなってしまうんです。
「消えるなんて、そんなことできるはずないのに。そういう惑い(ゆめ)を見てしまうんです」
ひどい裏切りだと思った。
めぐみは唇を震わせる。これほどに誠意と愛をそそいでもらっているのに。消えたいだの、しにたいだのを考えつづける女。
涙でぼやけているから、自分の手を離さぬ男(ひと)が、どんな顔をしているのか分からないことに、安堵するような女。
右手でめぐみの手首を掴んだまま、理也が立ち上がる。もう片方の手をめぐみの目元へと差し伸べる。溢れて止まらぬ、めぐみの涙を拭い、理也は微笑んだ。
「……大丈夫です。いいんです、貴方に、俺と添い遂げる覚悟がなくても」
「理也さん、」
「貴方に覚悟があろうとも、なかろうとも」
―― 俺は貴方を離す気がないんですから。
涙を拭った手で理也はめぐみを抱き寄せた。耳元で囁かれる声が、やさしいのかつめたいのか、めぐみは分からぬまま、彼の胸に顔を埋める。その温かい感触が、自身の涙に濡れて冷たくなっていくことに罪悪感を感じながら。握られた手をようやく握り返した。
視線をうつろわせ、窓の外を見る。湖面のような蒼い瞳には、夜空にぽっかりと浮かぶ白い月のかげがあった。
チョコレート掌編(理めぐ)
#月影の鎖
「あの、冬浦さん」
呼びかけると、華奢な肩がびくりと震えた。
「いま、何を隠したんですか?」
女将をしているときなら、あんなにソツないのに。こころの動揺そのままに、碧い瞳をしきりに瞬かせている。もじもじしながら言い渋るさまは、正直、可愛らしかった。口の端が上がりそうになるのを堪えながら、俺は些か意地のわるいことを言った。
「気になって、俺、夜も眠れなくなる、かも」
麗しい眉をハの字に下げ、すっかり困り果てている。……好きな女性を困らせている。何がとは言わないが、ぐっと来るものがあった。
「そんな大層なものでは……」
「どうしても、駄目なんです?」
「そ、そんな顔、しないでください……」
(どんな顔をしていたんだ、俺) 思わずすみませんと謝りつつ、一歩分ほど上体を引っ込める。すると、彼女は少し慌てて、その薄い唇を微かに震わせた。
「ちょ……」
「ちょこ?」
「チョコレートを……作ってみたのですよ」
「チョコレート……、」
作れるものなんですか、という野暮な問いは呑み込んだ。本土ではそれなりに流通していると聞くが、残月島では未だ高級な嗜好品といって過言ではない。
冬浦さんいわく、紅市で珍しい豆『カカオ』がそう高くはない値段で売っていたので、つい手が伸びたのだという。節約家の彼女が、物珍しさで買い物をするとは。俺は内懐で感心した。
「それで、その、チョコレートが?」
「それで……作ってはみたのですが、思ったようには行かず……」
「貴女にも、作れない料理ってあるんですね」
「当たり前です」
むくれてみせる彼女の、うすく膨れた頬の愛らしさに、俺は一瞬息を詰める。
「お菓子作りって、ふだん作っている料理とは、やはり違うものですね」
そうごちる冬浦さんの声は小さく、この小ささよろしく消沈しているらしかった。
「それでも、一応、形にはなったんですよね?」
「形には……。ただ、味が……」
背中に回したきりの両手が、ようやく彼女の体の前に現れた。朱色の鮮やかな帯の前で、白い手が重なる。その手の内に包み紙がはみ出して見える。
「そんな大事に手に持ってたら、溶けちゃうでしょう」
苦笑をまじえつつ、差し出した手のひらの上に、ややくしゃっと丸まった包み紙が載せられる。これ以上意地を張るのは無理だと観念したようだった。依然、眉は下がったままだったけれど。
「……先日、兄の本土土産に、森長のチョコレートを貰ったのです。それが美味しくて、嬉しかったものですから」
―― 不相応なのは承知ですが、私も貴方に、贈りたくなってしまったのです。
白い頬を薄く初め、淡くはにかみながら彼女が言う。鈴を転がすような美しい声で語られた彼女の心に、どきりと心音が高鳴った。
「……今ここで、いただいても?」
「……砂糖が足りてなかったみたいなんです」
「構いませんよ。十二分なくらいです。きっと」
指で慎重に包み紙を開き、現れたのは三つのチョコレートだった。大小ばらばらだが、いずれも金魚の形をしている。これもまた、冬浦さんの心遣いだろう。そっと口の中へと運ぶ。舌で転がすと、ほろ苦い芳香が口腔から鼻腔へと広がった。
胸の前でぎゅっと結ばれた白くて細い指。湖緑の瞳が俺だけを映し―― 不安げにじっと見詰めてくるさまを見るだけで、舌が甘くなってしまいそうだった。「美味しいですよ」と伝えると、彼女の表情がふわりと綻ぶ。チョコレートはいよいよ甘さを増し、のどの奥へと溶けていった。
「あの、冬浦さん」
呼びかけると、華奢な肩がびくりと震えた。
「いま、何を隠したんですか?」
女将をしているときなら、あんなにソツないのに。こころの動揺そのままに、碧い瞳をしきりに瞬かせている。もじもじしながら言い渋るさまは、正直、可愛らしかった。口の端が上がりそうになるのを堪えながら、俺は些か意地のわるいことを言った。
「気になって、俺、夜も眠れなくなる、かも」
麗しい眉をハの字に下げ、すっかり困り果てている。……好きな女性を困らせている。何がとは言わないが、ぐっと来るものがあった。
「そんな大層なものでは……」
「どうしても、駄目なんです?」
「そ、そんな顔、しないでください……」
(どんな顔をしていたんだ、俺) 思わずすみませんと謝りつつ、一歩分ほど上体を引っ込める。すると、彼女は少し慌てて、その薄い唇を微かに震わせた。
「ちょ……」
「ちょこ?」
「チョコレートを……作ってみたのですよ」
「チョコレート……、」
作れるものなんですか、という野暮な問いは呑み込んだ。本土ではそれなりに流通していると聞くが、残月島では未だ高級な嗜好品といって過言ではない。
冬浦さんいわく、紅市で珍しい豆『カカオ』がそう高くはない値段で売っていたので、つい手が伸びたのだという。節約家の彼女が、物珍しさで買い物をするとは。俺は内懐で感心した。
「それで、その、チョコレートが?」
「それで……作ってはみたのですが、思ったようには行かず……」
「貴女にも、作れない料理ってあるんですね」
「当たり前です」
むくれてみせる彼女の、うすく膨れた頬の愛らしさに、俺は一瞬息を詰める。
「お菓子作りって、ふだん作っている料理とは、やはり違うものですね」
そうごちる冬浦さんの声は小さく、この小ささよろしく消沈しているらしかった。
「それでも、一応、形にはなったんですよね?」
「形には……。ただ、味が……」
背中に回したきりの両手が、ようやく彼女の体の前に現れた。朱色の鮮やかな帯の前で、白い手が重なる。その手の内に包み紙がはみ出して見える。
「そんな大事に手に持ってたら、溶けちゃうでしょう」
苦笑をまじえつつ、差し出した手のひらの上に、ややくしゃっと丸まった包み紙が載せられる。これ以上意地を張るのは無理だと観念したようだった。依然、眉は下がったままだったけれど。
「……先日、兄の本土土産に、森長のチョコレートを貰ったのです。それが美味しくて、嬉しかったものですから」
―― 不相応なのは承知ですが、私も貴方に、贈りたくなってしまったのです。
白い頬を薄く初め、淡くはにかみながら彼女が言う。鈴を転がすような美しい声で語られた彼女の心に、どきりと心音が高鳴った。
「……今ここで、いただいても?」
「……砂糖が足りてなかったみたいなんです」
「構いませんよ。十二分なくらいです。きっと」
指で慎重に包み紙を開き、現れたのは三つのチョコレートだった。大小ばらばらだが、いずれも金魚の形をしている。これもまた、冬浦さんの心遣いだろう。そっと口の中へと運ぶ。舌で転がすと、ほろ苦い芳香が口腔から鼻腔へと広がった。
胸の前でぎゅっと結ばれた白くて細い指。湖緑の瞳が俺だけを映し―― 不安げにじっと見詰めてくるさまを見るだけで、舌が甘くなってしまいそうだった。「美味しいですよ」と伝えると、彼女の表情がふわりと綻ぶ。チョコレートはいよいよ甘さを増し、のどの奥へと溶けていった。
魔境の女(理めぐ)
#月影の鎖
望月理也の妻、めぐみは美しい。残月島に流れる時間は、只でさえゆるやかに感じられるのに、彼女に於いては、まるで時間の概念が存在しないようだった。率直に美しいとみていたが、同時に恐ろしくもあった。
めぐみはよく気が利くし、周囲を思い遣るその心に、嘘はないようだった。彼女の手から作られる料理は、派手さは無くとも、細部にまで美意識が感じられて、言うまでもなく美味かった。そもそも、望月の友人であるその男は、彼と彼女の関係を快く思っていないわけではない。むしろその逆だ。
―― めぐみはふしぎなほど老いなかった。殊の外、望月理也という男の前では。
白くすべらかな頬をほのかに染め。細い指で彼に尽くし。唇に淡紅を差すことを怠らなかった。恋の初々しさと艶やかさが、いつになっても欠けなかった。望月を見つめるまなざしは、永遠の恋を謳っていた。
彼女には二人の息子がいたが、育児を疎かにしたわけではない。望月へとそそぐそれとは対照的に、ある程度老成した、温和なまなざしで彼女は彼らを見守っていた。息子たちが青年と呼べる年を数えても変わらない。めぐみの面影にはあまり変化がなかった。
隣で安らかに寝息を立てる妻の、目頭に入った小皺を指でなぞる。妻の若い面影を記憶から引き出し、今まで共にしてきた年月を思う。望月の妻、めぐみは美しい。―― しかし。少なからず老いた妻とくらべて、老いの訪れない彼女を、あるいは彼女を家内にもつ望月が羨ましいというと、そうでもない。男は独白する。
脳裏によぎる、春宵の光景。闇夜に白く浮かび上がる夜桜の下、まだ寒さの残る夜風にあやめ色の長い髪をなびかせ、ランプを片手に夫の帰りを待つ女。その眼は凪いだ湖面の如く冴え冴えと、見ようによっては冷たく、薄く憂いを帯びて伏せ目がちだった。夜陰によく馴染む昏ささえ覗かせていた。しかし良人の影を捉えた一瞬、めぐみはこの世に棚引くあらゆる時間から切り離されたように思えた。陶器の如き雪肌が瑞々しく紅潮する。おのれの姿を見るや否や潤んで蕩けた瞳に、望月は照れくさそうに頭をかきつつも、嬉しげに頬を緩ませ、駆け寄っていく。おとこはおんなに誘われ、桜の樹の下へ。―― 振り向きざまに一礼して遠ざかっていく二人の行く先が、果たして自分の世界と同じもの、地続きのものであるのか。望月理也の友人である男には、何故だか疑わしく思えた。
めぐみは気の利く娘で、周囲を思い遣る心は本物だ。心の籠もった料理の一つ一つは、言うまでもなく美味である。彼女の手で育てられた二人の息子は、若かりし頃の望月理也を思わせる、誠実で気立てもよい好青年だった。その全てが確かな事実である―― それでも。
……望月、その女のそばは果たして仙境か。
彼には、冬浦めぐみを魔境の者とみる直感を捨てきれなかった。
望月理也の妻、めぐみは美しい。残月島に流れる時間は、只でさえゆるやかに感じられるのに、彼女に於いては、まるで時間の概念が存在しないようだった。率直に美しいとみていたが、同時に恐ろしくもあった。
めぐみはよく気が利くし、周囲を思い遣るその心に、嘘はないようだった。彼女の手から作られる料理は、派手さは無くとも、細部にまで美意識が感じられて、言うまでもなく美味かった。そもそも、望月の友人であるその男は、彼と彼女の関係を快く思っていないわけではない。むしろその逆だ。
―― めぐみはふしぎなほど老いなかった。殊の外、望月理也という男の前では。
白くすべらかな頬をほのかに染め。細い指で彼に尽くし。唇に淡紅を差すことを怠らなかった。恋の初々しさと艶やかさが、いつになっても欠けなかった。望月を見つめるまなざしは、永遠の恋を謳っていた。
彼女には二人の息子がいたが、育児を疎かにしたわけではない。望月へとそそぐそれとは対照的に、ある程度老成した、温和なまなざしで彼女は彼らを見守っていた。息子たちが青年と呼べる年を数えても変わらない。めぐみの面影にはあまり変化がなかった。
隣で安らかに寝息を立てる妻の、目頭に入った小皺を指でなぞる。妻の若い面影を記憶から引き出し、今まで共にしてきた年月を思う。望月の妻、めぐみは美しい。―― しかし。少なからず老いた妻とくらべて、老いの訪れない彼女を、あるいは彼女を家内にもつ望月が羨ましいというと、そうでもない。男は独白する。
脳裏によぎる、春宵の光景。闇夜に白く浮かび上がる夜桜の下、まだ寒さの残る夜風にあやめ色の長い髪をなびかせ、ランプを片手に夫の帰りを待つ女。その眼は凪いだ湖面の如く冴え冴えと、見ようによっては冷たく、薄く憂いを帯びて伏せ目がちだった。夜陰によく馴染む昏ささえ覗かせていた。しかし良人の影を捉えた一瞬、めぐみはこの世に棚引くあらゆる時間から切り離されたように思えた。陶器の如き雪肌が瑞々しく紅潮する。おのれの姿を見るや否や潤んで蕩けた瞳に、望月は照れくさそうに頭をかきつつも、嬉しげに頬を緩ませ、駆け寄っていく。おとこはおんなに誘われ、桜の樹の下へ。―― 振り向きざまに一礼して遠ざかっていく二人の行く先が、果たして自分の世界と同じもの、地続きのものであるのか。望月理也の友人である男には、何故だか疑わしく思えた。
めぐみは気の利く娘で、周囲を思い遣る心は本物だ。心の籠もった料理の一つ一つは、言うまでもなく美味である。彼女の手で育てられた二人の息子は、若かりし頃の望月理也を思わせる、誠実で気立てもよい好青年だった。その全てが確かな事実である―― それでも。
……望月、その女のそばは果たして仙境か。
彼には、冬浦めぐみを魔境の者とみる直感を捨てきれなかった。
「冬浦さんほど良い女、そうはいない」
それは単なるうわさ話だ。俺がいないところでの。冬浦めぐみと共に本土に戻ってきて、それなりの時が経った。彼女の賄いの仕事もずいぶん社に馴染み、もはや名物といっても過言ではない。彼女の手料理を楽しみに仕事に勤しむ男たちも少なくないと聞く。これも単なるうわさ話だ。
(あれが、良い女に見えるのか)
樹は胸のうちで独りごちる。脳裏で彼女のことを思い浮かべる。
気は利くし、よく働く。応対自体も、控えめながら決して無愛想ではない。
何より料理は、味にうるさい兄を唸らせるほどの逸品。その手練に込められた心に、裏表なきことも、樹は知っている。
スミレの色をした長い髪、湖面のような瞳。世間一般的に、「美しい」と評しうる程度には整っている。着物に隠された胸元も、人並みより豊かなことも知っている。
(そう、見目は良いほうがいい)
外見は美しいことに越したことはないはずだ。―― だのに。
(本当に莫迦げている)
その罵詈は誰に向けたものであろう。恋人が聞き耳を立てていることも知らず、下世話に興じる男たちにに向けたものか。―― おのれに向けたものであるか。
かの島の一夜。月の光差す縁側。重ねられた手。
―― 冬浦めぐみがいかに醜女であろうとも、あれはあの夜、俺のそばにいたのだろう。
ひとが聞けば、容姿を問わぬ愛だ、純愛だのと高踏ぶるかもしれないが、如何せんそう甘やかな類のものではない。
(我ながら、この情念《おもい》は狂っている)
藤堂樹には確信があった。
貌がいびつに歪んでいようと、髪が白茶けていようと、瘦せ衰えた老婆であろうとも。この身に抱えた虚ろを無様なほどに暴くのは、間違いなく、冬浦めぐみ一人であっただろう―― と。
樹は薄い唇に引き攣らせ、自嘲する。
心臓のあたりを手で触れれば、衣服の裡に忍ばせた小瓶の硬い感触がした。空には、あの日と似た月が白く浮かんでいる。